ミニバンと呼ばれるカテゴリーがすっかり定着した現代の日本の自動車市場。その先駆けとなる1台が、1982年に登場した日産プレーリーだ。センターピラーレスのドアに開放的な室内、多彩なアレンジを可能とした3列式シートなど、実用的かつ利便性に優れるそのキャラクターは、後の自動車シーンに大きな影響を与えた。今回は国産ミニバンの草分け的なモデルの話題で一席。

 


【Vol.68 初代 日産プレーリー】


厳しい排出ガス規制やオイルショックの混乱を持ち前の創意工夫で乗り越えた日本の自動車メーカーは、1980年代に入るとクルマの性能向上や新ジャンルの開拓に力を入れ始める。そんな状況のなか、日産自動車は“世界初のニュー・コンセプトカー”というキャッチフレーズを冠した新ジャンルのモデルを1982年8月にリリースする。ビッグキャビンにショートノーズの1.5ボックスボディ、従来は商用車だけに使われていたリアスライドドアを採用するそのクルマは、「プレーリー」(M10型)と名乗った。


車名のプレーリー(PRAIRIE)は大草原を意味する英語である。当時のプレスリリースによると、「このクルマの持つ広がりや無限の可能性を象徴するネーミングとして採用した」という。大型レジャーや大容量の荷物の運搬など、ユーザーのさまざまな使い方に広く対応するクルマ、という開発意図を車名に込めたわけだ。ちなみにプレーリーの開発主管を務めたのは、旧プリンス自動車工業のエンジニアで櫻井眞一郎氏のもと歴代スカイラインの開発に参画し、後に8代目のR32型スカイラインの開発主管、さらにはGT-R(BNR32型)の復活を実現した伊藤修令氏だった。


プレーリーは一見すると背の高い小型クラスのワゴンボディ(全長4090×全幅1655×全高1600mm/ホイールベース2510mm)だが、その中身は新しさに満ちあふれていた。まず驚かされたのがセンターピラーレスのドアだ。フロントの前ヒンジドアとリアのスライドドアを全開すると、広大な開口部が現れる。しかも左右のドアともにフルオープンを採用していた。フロア面もフラットで低い。T11型系スタンザのFFコンポーネントやVN10型系パルサーバンのリアサスを流用し、キャビン部に余計な突起物を設けなかったことが効果を発揮している。広いガラスエリアも、室内の開放感アップに大きく貢献していた。

 

JWシリーズのインテリア。フルフラット機構や2列目の回転対座機構を有する3列式シートの設定も


シート配列はグレードによって異なる。JWシリーズは3列式シートで、3/3/2名乗車の8人乗り。1/2列目のフルフラット機構や2列目の回転対座機構(JW-Gグレードに設定)など、現代のミニバンに共通する機能装備を盛り込んでいた。RVとSSシリーズは5人乗車の2列式シートで、後席の居住性とラゲッジスペースの使い勝手を重視している。さらにビジネスモデルのNVシリーズもラインアップした。シリーズ名のアルファベットは、それぞれ意味を持っている。JWはジョイフル・ワゴン、RVはレクリエーショナル・ビークル、SSはスペース・セダン、NVはナイス・ビークルの略だった。


搭載エンジンにはCA18型1809cc直列4気筒OHC(100ps)とE15型1487cc直列4気筒OHC(85ps)の2機種を設定し、駆動方式にはFFを採用。懸架機構には専用セッティングの前マクファーソンストラット/後トレーリングアームを組み込む。車重が1トン前後に収まっていたため、加速性能は思いのほか良好。しかも低重心のボディ構造の恩恵で、ハンドリングの不安感も小さかった。一般的な2ボックス車の感覚で運転できたことが、初代プレーリーの走りの特徴といえた。

 

 

■国産マルチパーパスビークルの礎の1台に昇華

 

ビッグキャビンにショートノーズの1.5ボックスボディ。従来は商用車だけに使われていたリアスライドドアを採用する

新しいジャンルを開拓したプレーリーのコンセプトは、他メーカーでも大いに注目された。三菱自動車工業ではシャリオなどが追随。また、米国ではほぼ同時期に元祖ミニバンと称されるクライスラー・グループのダッジ・キャラバン/プリマス・ボイジャーが、欧州ではフランスのルノーによるモノスペース車のエスパスが登場し、マルチパーパスビークルのカテゴリーに参入してきた。


自動車業界では脚光を浴びたプレーリーだが、販売成績はデビュー当初を除いてそれほど振るわなかった。当時はハイテク満載の高性能スポーツモデルが脚光を浴びていたからである。テコ入れ策として日産は、プレーリーの車種展開の拡大や機構面の改良を精力的に実施していった。


まず1983年中には、装備を充実させた特別仕様車の「50スペシャル」や「エクストラ」を発売。1984年1月にはエクストラJWおよびエクストラJW-Gを追加する。1985年1月になるとマイナーチェンジを行い、バンパーごと開口していたリアハッチゲートをバンパー上端から開口するタイプに変更してリア剛性を高め、さらにリアクォーターウィンドウを上方へと拡大して開放感をアップさせる。同時に、内外装デザインの一部変更やパワートレインの改良なども実施した。同年9月にはC20S型1973cc直列4気筒OHCエンジン(ネット値91ps)を搭載するパートタイム4WDモデルを設定。リア懸架にはリバースAアーム式ストラットサスペンションを組み込む。また、翌10月には4WDモデルの特別仕様車となる「ウィンタースペースワゴン」をリリースした。


多様なリファインを図っていったプレーリーは、販売台数こそ大きく伸びなかったものの、アウトドアレジャー好きを中心に熱心な固定ファンを獲得する。この種のマルチパーパスビークルの潜在ユーザーを確認した開発陣は、より利便性が高くて高性能な次期型の開発に邁進。1988年9月には第2世代のM11型を市場に放つこととなった。

 

 

■デビュー当時のプレーリーはミニバンではなかった!?

 

「大型レジャーや大容量の荷物の運搬など、ユーザーのさまざまな使い方に広く対応するクルマ」を狙った。まさに現代のミニバンのコンセプトだ

ちなみに、発売当初のプレーリーは後に乗用車の1カテゴリーとして定着する“ミニバン”の名称は使わなかった。当時はバン=商用車というイメージが強く、ユーザーが限定されると予想したからである。プレーリーもJW、RV、SSがセダン、NVがエステートと称していた。ミニバンの呼称が一般に普及し始めたのは1980年代終盤に入ってから。北米市場でクライスラー・グループのミニバンが大人気を博し、競合他社も追随。日本でも多くのメーカーが新型ミニバンをリリースした。余談だが、日本ではかつてミニバンを車名に使ったクルマが存在した。富士自動車が1961年に発表した軽商用車が「ガスデン ミニバン」を名乗っている。
 

情報提供元:citrus
記事名:「【中年名車図鑑】国産ミニバンの草分け的モデルが、発売当時“ミニバン”を名乗らなかった理由